深見東州は在家得度していないという批判の嘘

深見東州は在家得度しており、禅的境地や禅に対する造詣は本物です

ワールドメイトの深見東州は、声明の大家(故)天納傳中大僧正に師事し、天台座主(天台宗総本山、比叡山延暦寺住職)の許可のもと在家得度をしているそうです。

 

 

声明の大家(故)天納傳中大僧正に師事、天台座主(天台宗総本山、比叡山延暦寺住職)の許可のもと在家得度

 声明とは、仏教儀式における、古典声楽曲のことです。

 キリスト教に聖歌や賛美歌があり、典礼で歌い継がれてきたように、仏教でも古来、仏様を賛美して、経文や真言に節を付けた「声明」が唱えられていました。ルーツは古代インドに遡りますが、中国声明の発祥は、現在の山東省・魚山にて、天から降ってきた音楽を地に伝えたものと言われます。その声明が、日本に伝来して根付いたのです。

 声明は、日本のあらゆる音楽の源流とも言われています。尼僧で作家の瀬戸内寂聴さんは、「子守歌も演歌も、浪曲も、能の謡も、長唄や清元も、すべて声明から生まれた」と述べています。

 また瀬戸内さんは、「天台宗で用いられる天台声明が、もっとも代表的なものとして、今では外国にもよく知られている。」とも述べています。こうした、海外に声明を紹介する活動を積極的に行い、「理論、実践を兼ねた最高の声明家」と言われたのが、天納傳中大僧正でした。天納師は、日本声明発祥の地である大原魚山の、「実光院」住職であり、声明の第一人者と言われた方です。

 深見氏は、能楽師として研鑽を積む中で、謡のルーツに声明があることを実感しました。そこで、当代一の大家であった天納師に師事し、声明の修業を始めたのです。

 そして、声明を極めるために、一時は出家も考えたそうです。しかし、天納師から、「海外でも活動する深見先生の場合、今は在家得度が良いでしょう。出家するのは、もっと年を取って、仕事に支障がなくなってからで良い。仏法に深く帰依し、仏に対する崇敬の念があれば、在家得度でも出家でも関係ないことです。巷で、一隅を照らす人になって下さればいいのです」とのアドバイスを頂きました。そこで、天台座主の許可のもと、在家得度することになったのです。

 なお、法名を「東州」としたのは、天納師の勧めによるものです。深見氏は、もともと宗教家、およびアーティストとしての名を「東州」としていました。さらに天納師から、「『東州』という言葉は、『山家学生式』(註:日本天台宗の祖・最澄の著作)にも出てきますし、そのまま法名にしましょう」と勧められたのです。


(深見東州(半田晴久)「天台声明を大僧正より習う 天台宗比叡山 得度」より引用)


在家得度で「戒名」を生前に戴いただけ、という批判は真っ赤な嘘

「ワールドメイトの実態」では、在家得度とは、「人が死ねば誰でも菩提寺から戴く「戒名」をそれなりのお金を払って生前に戴き、仏の弟子になること。」と定義しています。しかし、深見東州のケースを見る限り、上記の定義とは全く異なっています。

 

まず、深見東州が授かった法名は、どうみても「戒名」とは異なっています。また「実光院」も「比叡山延暦寺」も菩提寺でもなんでもないそうです。

 

得度式は幼稚園の入学式と同じ、という批判

「ワールドメイトの実態」には、「それ(得度式)が例え、修行僧の得度であったとしても、幼稚園の入学式のようなもの、プロフィールに載せる人など誰一人いない。(延暦寺某氏の話)」とあります。

 

しかし、得度式が、幼稚園の入学式のようなものであるはずがありません。幼稚園の入学式というのは、右も左もわからない幼児が保護者の選択により、出席するものです。そして、幼稚園や保育園は、たいていの方が経験することです。

 

一方、得度式は、生涯、御仏に仕える決意をして臨む、生涯に一度の人生の転換期であると言えましょう。誰もが行うものでもありません。

 

「ワールドメイトの実態」では、「延暦寺某氏」の話などと、あたかも本物のお坊さんの言葉であるかのように装っていますが、なぜ、それなら、堂々とお坊さんであることを明記しないのでしょうか? ひょっとして、延暦寺のお掃除係とか、延暦寺の近くに住んでる一般人、などというオチでもあるのでしょうか? このような比較にもならない話を、延暦寺のお坊さんが話すとはとうてい考えられません。

 

あまりにも、疑問に思ったので、延暦寺に「得度式は幼稚園の入学式のようなもの」であると、延暦寺某氏が話した、とネットに書いてあるが、本当ですか?と聞いてみました。すると、延暦寺とは一切関係ありません、ということでした。

 

「ワールドメイトの実態」の記載は、明らかに虚偽の記載である、ということですね。

 

神仏習合〜神道と仏教の関係について

神道と仏教は不可分

日本は神仏習合しており、神道と仏教は不可分であります。

 深見東州氏は、度会家行が提唱した反本地垂迹説の立場をとっています。

 すなわち、神が仏に化身をし衆生を救うとする、神道と仏教は不可分であるという立場です。

 たとえば、天台宗に於いては古来から、単に中国伝来の天台教学にとどまらず、法華経・密教・禅・戒を、融合し切り離すことなく修業しました。その総合性の中から、禅を志した栄西・道元、浄土宗を開く法然、法華経を追求した日蓮、踊り念仏を追求した一遍など、多様な人材が育ったのです。

 また、日本臨済宗中興の祖と言われる、江戸時代の白隠禅師は、禅を極限まで極めた方ですが、同時に秋葉権現のような、神社のご神体となるお札を描いています。禅の極限にある、禅にとらわれず禅を超越したものを、白隠禅師が体得されていたからです。

 こうした祖師達の事績を学ぶ深見氏は、神道をベースとしながらも、仏さまにもご活動頂き、衆生を救って頂きたいと願っています。その仏のお働きを、反本地垂迹説のように、神が化身した姿と捉えて、神仏共に敬っているのです。

深見氏は神道にとどまらず、天台、密教、禅その他様々な教えの本質を、各界の大家から吸収し、その普遍的な要素を衆生救済に活かそうと努めているのです。


(深見東州(半田晴久)「天台声明を大僧正より習う 天台宗比叡山 得度」より引用)

 

深見東州はお坊さんではないという批判について

深見東州が神主でもありお坊さんである、という内容が虚偽にあたるのか?

「ワールドメイトの実態」では、深見東州はお坊さんではない、という勝手な決めつけにより、深見東州が「神主であり、お坊さんである方」と呼称していることを、虚偽記載、などと指摘しています。

 

その理由としては、僧籍簿にのっていないから、などと書いています。しかし、そんな決めつけはナンセンスです。プロではなく、アマチュアであっても、プロを凌ぐ実力があるわけであり、アマチュアであるから虚偽である、などと決めつけるのはいかがなものでしょうか。

 

深見東州は、天台座主(比叡山延暦寺の住職)の許可のもと、「在家でも出家でも関係ないことです」というアドバイスのもと、得度式を行ったのです。さらに、26才までに三度の見性を体験し、その後も禅的境涯を高める研鑽を積んでおられます。そして、その境地や禅に対する造詣が本物であることを、臨済宗東福寺派管長の(故)福島慶道師に認められ、居士名「大岳」を授かっているのです。

 

深見東州は、在家でありながら、お坊さんとしての修行も十分に積んでいます。日本は、もともと神仏習合していますから、神道と仏教は不可分であるという信念により、自らが「神主でありお坊さんでもある」とし、神道のみならず、広く密教や禅などをはじめ仏教に関する実践研鑽を続けているのです。

 

こうした視点からみると、深見東州が「神主であり、お坊さんである方」であるというのは、別に虚偽でもなんでもないということがわかると思います。

深見東州「千の風になって」爆発的な売れ行きが虚偽記載?

実際に、深見東州「千の風になって」は売れ行きがいい

「ワールドメイトの実態」において、「最近の産経新聞の広告で、深見氏の歌「千の風になって」が「全国 主要CDショップで爆発的売れ行き!」などと事実でない情報操作をしている」とあります。

 

しかし、これはまったくひどい中傷としかいいようがありません。

事実、「千の風になって」は非常に売れ行きがいいそうです。AKB48などのタレントのような売れ行きではないにしろ、インディーズからのリリースではまれにみる売れ行きということでした。

 

売れ行きが良くなければ、インディーズレーベルのCDを主要ショップでの取り扱いもいずれなくなるはずです。継続的に全国CDショップに、「千の風になって」がおいてあるということは、売れ行きがいい証拠でもあると思います。

 

また、広告で「爆発的売れ行き!」などというキャッチフレーズをつけることを、「情報操作」とは言いません。情報操作とは、証言、記事、写真、映像等の情報を制限したり、虚偽または虚偽にならない範囲で改変することによって、その情報を受け取った者が受ける印象や判断結果に影響を与えようとする行為といいます。

 

売れ行きがいいというデータも実際にあるわけでしょうし、なにも改変していません。ですから、「情報操作」ではないのは明白です。